第5章-2010年 引退そして今へ ~変わったこと、変わらなかったこと~
引退後の生活はフロアーで踊る側から審査する側もしくは裏方に移行しました。
ただ普段の生活はあまり変わりがありません、ダンサーである為には練習そして、研究が不可欠です。体も脳の中身も進化する為の努力は競技には関係が無かったようです。
ここでひとまずヒストリー~歩み~が現在の時間に追いつきました。
次回からいよいよ頭の中を探る旅に出ていこうと思います。
第5章-2009年 引退そして今へ ~変わったこと、変わらなかったこと~
産後の体から踊る体に戻るため四苦八苦していた美佐子も努力の甲斐があり5種目のデモが出来るようになりました。
1年前、出産後初めてのレッスンであっと言う間に貧血で踊れなくなったのが遠い昔のようです。
未だおっぱいから離れない息子に授乳しながら以前のようなスタミナに戻った美佐子。卒乳後はどうなるのだろうか?
引退パーティーでラルフから本当に大きなプレゼントを頂きました。
素晴らしいコーチャーと出会えた事は人生の大切な宝物です。
第5章-2008年 引退そして今へ ~変わったこと、変わらなかったこと~
子供の成長は人体の不思議展さながら、ナチュラルな関節の連動にほれぼれ。
歩くころにはバランスのとり方や立ったときの重心の位置など力で調節しない赤ちゃんの本能が私に素晴らしいヒントを与えてくれました。
癖がついてしまった大人達が苦しむ一つとしてダンスの立ち方がありますが修正するアイデアがこんなに身近に見られるなんてほんとにラッキーです。
第5章-2007年 引退そして今へ ~変わったこと、変わらなかったこと~
いつもと変わらない年明けと共にドイツへ、ただ今回はラルフの教室に行く前に行きたい所があった。
ラテンのレッスンでは何度もお邪魔した事のあるオリバーの教室へモダンのレッスンに行くことにしたのである。
マッシモやファビオそして大好きなピノを育てた名コーチャーであるオリバーに1からモダンを教えてほしかった。
オリバーのダンスに対する考え方から始まったレッスン、とっても楽しい日々はあっという間に過ぎ日本に帰って来たのもつかの間、突然コウノトリが飛んできて・・・
そして10月、長男龍の誕生は大きな大きなプレゼントになりました。
第4章-2006年 夢の舞台 そして
長いようで短くもあった競技生活にピリオドを打つ時がやってきました。
9月24日は二人で初めて出場した日からちょうど丸19年、いろいろな事がありましたが満足のいく競技人生だったと思います。
引退のセレモニーをやって下さった先生方には本当に感謝しています、
素晴らしい時間を有難うございました。
大勢の友人も出来ました、これからの人生はダンス界に恩返しができるように、素晴らしい選手が世界で活躍できるように応援していきたいと思っています。
第4章-2003~2005年 夢の舞台 そして
2002年に横浜にオープンしたヤハタダンススクールも軌道に乗りスタッフも増え充実した日々を過ごしました。
ただ競技者としてのハングリーさは徐々に薄れていきました。
引退の相談も何度かラルフにしましたがまだダンスに於いてやり残した事があると聞いてはもらえませんでした。
今にして思うとこの引退間近の数年間でダンスの理解度は飛躍的に向上したと思います、けがも増えましたが続けていてよかったと今では思っています。
第4章-2002年 夢の舞台 そして
オランダ デン・ハーグに於いて世界選手権が開催されました。
日本代表として山本善洋・英美組と共に臨んだこの大会は、大会初の日本人2組の決勝進出そして全日本チャンピオンを抑えて第5位という好成績。
最高の形で夢の舞台を迎えることができました。
優勝はマイケル・マリトースキー&ジョアンナ・ルーニス、新時代を予感させるダンスで圧倒的な声援を受けていました。
彼らのスピード・パワーそしてアクロバティックのステップの数々は今までショーの構成と踊り手のクオリティーそしてその時の観客の支持を得ることができれば世界チャンピオンも十分狙えると思っていた私のショーダンスの考え方を根本から覆すほどの衝撃があったのを覚えています。
ジャーマンオープン選手権で優勝した作品ミステアー、世界各地で踊った作品シカゴ、そして世界選手権で踊った作品キャバレー。
それ以外にも沢山の作品を作ってくれたラルフには本当に感謝しています。
VielenDanke. ありがとうございました。
第3章-2001年 痛みを乗り越え 夢へ
1997年から5年間ジャーマンオープン選手権ショーダンスでファイナルを踊り続けてきた事がついに実を結び、全日本ショーダンス世界選手権で第2位となり念願の日本代表として世界選手権に出場する切符を手に入れることが出来ました。
ボンの空港で夢を見てから10年、夢の実現まであと一歩のところまでやってきました。
第3章-2000年 痛みを乗り越え 夢へ
統一全日本がスタートした記念すべき年です。
6年間JDCのファイナリストとして踊ってきたプライドを持って挑んだ初めての全日本戦。
結果は残念ながら準決勝止まりでしたが、久しぶりにまた大勢の友人と日本国内で同じ試合に出場できてとてもエキサイトした試合でした。
第3章-1999年 痛みを乗り越え 夢へ
ドイツ以外の国の試合にも出場できる位、美佐子のヘルニアの調子も良くなり久し振りのU・K戦ライジングスターで2度目の準決勝入賞、ドイツですでに高額の賞金を頂いていたけどイギリスの大会で賞金が取れるのはやはり嬉しいものです。
なぜならイギリスのヒースロー空港の入国審査で必ず何しに来たのか尋ねられ、ダンスの試合に来た。
と言うと、賞金を持って帰るのか?と言ってきます。
その時にイエス、オフコースと言って少し日本人を馬鹿にしているような入国管理官に言ってあげると、精々頑張ってねって冷やかされるのですが、出国の時はしてやったりと思って飛行機に乗り込んでいました。